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人物探訪

小宮山敏文さん(林業)

八ケ岳の主峰、標高2899mの赤岳を北端にする大泉町は森林に囲まれた自然豊かな高原。ここ八ケ岳南麓で三代にわたり林業にたずさわる小宮山ファミリー。
岐路にたつ林業に立ち向かう小宮山敏文さんに新しい林業への挑戦、森林の魅力などを聞いてみた。
木にはそれぞれ個性があり、森林は人間社会に似て、「自然から学ぶこと」は山ほどあると言う。



八ケ岳南麓の開拓と林業


大泉町の最北端は標高2899mの赤岳である。最南端は下井出の油川河岸(標高760m)。東は美の森北東の大門川河岸で標高1520m。西の端は三ツ頭の南南西の尾根で標高1960m。地形は八ケ岳横断道路を境に山岳部と裾野に二分される。
ここに川俣川をはじめ甲川(かぶとがわ)、油川、鳩川など10ほどの河川が流れ、放射状に深い谷が発達している。
甲府気象台によって「小雨冷涼区」の山岳地域と指定され、雨が少なく夏は涼しい中央高原型の気象が特徴である。 生活の歴史は旧石器、縄文時代にまで遡り、戦国時代のことはNHK連続ドラマ「風林火山」に詳しい。
近年までの生活圏は上限が標高900mあたりだった。八ケ岳南麓の開拓、開発が始まったのは昭和7(1932)年。日本青年協会が天女山下に夏季休暇合宿の青年修養道場「岳麓道場」を開設したことに始まる。
ここでは林業や農作業および高山植物の管理作業などが行われた。この施設は太平洋戦争の激化にともない、学徒動員で参加者が減少、廃止された。戦後は戦災者の集団帰農を目的に八ケ岳農場建設計画が発足。戦後の入植はこの八ケ岳農場建設から始まる。昭和21(1946)年11月12日に入植式が行われたと「大泉村誌」に書かれている。
小海線甲斐大泉駅(標高1158m)近くに住む小宮山福一さん家族は、親子3代にわたり南麓の開発、開拓から林業とたずさわってきている。
福一さんは1921年生まれで現在86歳。10代のころに北杜市長坂町の実家を出て大泉で開拓や林業、野菜作りなどを始めた。福一さんは現在病気療養中で話をうかがうことはできなかったが、林業を引き継いでいる長男の小宮山敏文さん(54歳)から当時の話を聞くことができた
戦地から戻った福一さんは、昭和21年から始まった八ケ岳農場で作業の指導にあたった。この集団帰農には2000人ほどの応募があって、厳重な審査の末に50人が選択された。
開拓地は前年の山火事で焼け野原のうえ開墾は手作業であった。厳しい冬の作業に耐えられず逃げ出す者もいた。また現金収入のために出稼ぎに出る状態で開墾は思うように進まなかったようだ。
入植者の住まいは、現地に持ち込んだ製材機で焼けた丸太を製材して建てた小屋で、土手に穴を掘って原始的な穴居生活を強いられる家族もあったという。
戦後間もない日本は、戦地からの復員や引き上げで人口は急増。働き手も乏しく戦災で土地は荒れ、食料の自給率は低く輸入に頼ることもできず、全国の人たちが貧しい生活を強いられていたのだ。

林業は植林をして木を育てそれを伐採して、その木材を経済的に利用することを目的にする生産業である。1本の木が商品になるまでは相当の年数を必要とする。
自然が相手のなんともスローライフで過酷な仕事である。小宮山さんたち入植者の仕事は開墾と同時に、戦前、戦中の乱伐で荒れた土地に植林することだった。

写真は昭和21年ころの大開開拓地(棚橋 博さん撮影 旧大泉村の広報おおいずみより転載)

分校に通い森で遊んだ



小宮山敏文さんが生まれたのは昭和28(1953)年。
お父さんの福一さんは林業のほかに豚を飼い椎茸の栽培も手がけて多忙だった。敏文さんが物心ついたころは家族の一員として畑作業などを手伝っていた。
豚は凶暴で手を焼いたそうだ。子供のころ林業の現場にはトラックの荷台に乗って出かけ、大人の人と一緒に弁当を食べたことやお父さんが鳥の巣のある木を伐採せずに残したことは印象強いが、手伝いというほどのことはしなかったそうだ。
小学校は分校に通った。今は八ケ岳ロイヤルホテルの立つ森の近くにあった分校には60人ほどの生徒がいた。飛びぬけて頭のいい子や遊びが得意な子など、入植者は全国さまざまなところから来ていて、個性や感情豊かな少年たちが集まっていたようだ。「たまには少年時代を思い返してみるのもいいものだ」と敏文さんは懐かしむ。
子供たちで山を駆け回り、川で魚を釣ったり、熊の足跡を見つけて驚いたり、探検隊ごっこのようなことをしたり……。敏文少年は家の手伝いや遊びを通じて自然との付き合い方を身に着けていった。
中学は小海線で小淵沢中学に通った。中学生になれば一人前の働き手である。トラクターの運転もすれば力仕事も任される。お父さんは林業や椎茸栽培のほかに村議会議員を務めるなど忙しかった。
昭和30(1955)年ごろから開拓部落に変化がおきる。開拓は県から借地権を得て恩賜林や土地を耕作してきたのだが、昭和30年に借地権の期限が切れ自己所有となった。これを処分して移転または事業をおこす人たちが出てきたのだ。
高校に進むころには井富湖周辺に別荘が建ち、甲斐大泉駅近くには大学生寮ができて、都会のことを大人や大学生から聞くようになる。田舎と都会といった生活空間の違いが話題にもなった。
お父さんが椎茸栽培をしていたこともあるが、森に入ればさまざまな茸がある。敏文さんは東京農業大学に進学。経験や知識をさらに広げたいというのが理由だった。
卒業論文はその成果として、茸に代表される「糸状菌についての研究」だった。
卒業後はここ大泉に帰り、ロッジタイプの宿泊施設「天女山荘」を建てて経営する。数年後、地元のスキー場に就職。そこで自然の復元という企画の責任者となる。
この企画は自然が気の遠くなるような年月をかけてつくった環境を、人間の手で取り戻そうという大変な計画であった。この企画に9年間かかわってきたが、その後退職。

写真上は昭和40年ころの井出原分校(水上 武嗣さん提供 旧大泉村の広報おおいずみより転載)

新しい林業への挑戦



 大泉という地名は明治8(1875)年に西井出村と谷戸村とが合併した際、両旧村の境界にあった大湧泉(大泉)になぞらえて名付けられたと言われている。
「小雨冷涼区」と言われるが降水量は山岳部で多く、降水は浸透して伏流水のもとになっている。
戦後の開拓で植林された木は立派な森林となった。しかし高層建築時代を迎え、また一般住宅の建築材も単価の安い輸入材を使うことが多い。木を育てそれを建築など経済的に利用してきた日本の林業が成り立たなくなってしまった。
各地の森林が荒れて問題ともなっている。この荒れた森林や自然環境をなんとかしたいと林業を引き継いだ敏文さんは「日本の林業の内容が見えなさ過ぎる」と語る。
今は環境を意識した新しい林業が主流である。「切って売る」という時代から計画的な事業としての林業が求められている。敏文さんが林業に携わる理由は新たな林業への取り組みもあるが、森には好奇心を満たしてくれる魅力があると言う。
木や植物は大地と大気をつなぎ、それ自体が酸素の生産工程である。また木にも個性があるなど自然界の情報を得ることが多いということだ。
大泉町を流れる河川は10本ほどある。敏文さんが少年時代に泳いだ甲川も今は大雨が降ったあと以外はほとんど水がない。
これは山岳地帯の木が育ち伏流水を吸い上げているからだそうだ。木が水を吸う量は想像以上らしい。白樺の木などに聴診器を当てて聞くとその勢いが分かるということだ。聴診器の代わりにコップを当てても聞くことができるかもしれない。
八ケ岳周辺の植物群は中部山岳地帯に位置する。気温の差が大きく大陸的な気候が特徴で南麓は日本の植物図鑑と言われるほど植物の種類は多い。
八ケ岳横断道付近にはコナラ林、アカマツ林が点在するが、カラマツの植林が一帯をおおっている。カラマツは寒さに強く、生育も早く、山梨の風土に合うと植林が進められた。
敏文さんはこういった森林の間伐や輪伐(年々森林の一部ずつを順次に伐採していくこと)を行っている。高温多湿の日本は植物にとって好条件。植林した木をツルや草から守って、ある程度の背丈まで成長させるのが育林。今はお父さんたちが植林して育林した木を管理しているわけだ。
日本の林業はスウェーデンなど北欧の国々に比べ、森林管理に関して30年ほど遅れているという。 スウェーデンでは森は開放的で機械化も進んでいる。伐採した木は建築や家具材、紙の原料のパルプとして、またチップにして発電に使われるなど用途は多岐にわたり、管理システムが確立している。林業が生産業として成立する買い取りシステムができているのだ。
また子供たちは森に入って環境問題だけでなく林業も学ぶ。木を伐採してこれを製材機で製材して小屋を建てる。この授業を先生からではなく上級生から学ぶのである。

「森の効用」の共通認識



 林業は木を経済的に利用する生産業にとどまらず、地球温暖化防止のための森林管理が注目されている。
敏文さんは計画的な事業としての林業、森林の管理システムを作ろうとしている。まずは森林管理の先進国に学びそれを普及することだそうだ。林業の機械化、社会のニーズに対応した木材の提供がその一歩である。
敏文さんと一緒に活動しているメンバーは5人。全員が森林ガイドの資格を持ち、伐採のほかに森林ガイドの仕事をしている。メンバーの一人に甥の信吾くん(23歳)がいる。
八ケ岳山岳地帯には草原性の植物から森林性の植物と豊富である。植物は環境変化に敏感なのだそうだ。植物への配慮は人が自然と共生するうえで大切なことだ。作業で使う道具や機械の燃料は低公害のものを使うこともその一つだ。
ここ数十年の温暖化による変化が大泉にも見られる。樹木は想像以上のテンポで育っているそうだ。しかし管理は経済的に成り立たず森林はまるで密林のように放置されているのが現状である。森林のためにも間伐が早急に必要なのである。
豊富にあるカラマツは耐久、耐湿性があり、古くから家屋の土台や電柱、枕木などに使われてきた。このカラマツの利用範囲をさらに拡大することもシステム作りでは欠かせない。その一つとしてカラマツ材だけを使う住宅建築計画が進行中である。
各地各方面で「地産地消」の経済効果が注目されているが、森林の活用をもう一度考えるときかもしれない。「土地のものを使う」これは日本に古くからある知恵だ。
技術立国「日本」が危ないのである。生活を豊かにするための道具作り、さらに効率を上げるための機械化や省力化のための電化。
こうした技術の発展の陰には、常に生活や生産現場からの知恵があった。いまの日本はこうした現場が見えなくなってきている。道具を使わなければ道具の良し悪しも分からなくなる。
このことは森についても言える。
大泉町は東京からは140〜150km、甲府からは50kmほどの距離にある。大人も好奇心旺盛な子供になって、森のなかで遊び、森や川の役割などをもっともっと自然から学んでほしい。森を身近なものに考えてほしいというのが敏文さんの考えである。
道具も使わなければ良さは分からない。森も入ってみなければ分からない。大泉町に来て自然のなかに住んでいることを楽しむ。また、来てよかったと思うようでなければ環境もよくならない。
これからの林業を考えるに先立って必要なことは、「森の効用」という認識を共用すること。林業も社会に貢献する事業でなければならないと敏文さんは甥の信吾くんに語っている。
2013/03/23(Sat) 10:34


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