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人物探訪

谷戸武雄さん(郷土史家)

人の人生にふれることで勇気がわくことがある。人のもつ可能性を過去の足跡、歴史から学ぶからだ。学校教育と社会教育は車の両輪と考え教職生活40年を務めてきた谷戸武雄さんは今年84歳になられる。社会教育の一環としてかかわってきた郷土への思いは今も現役のようだ。




自然に学ぶところは大きい


 谷戸武雄さんは大正14年(1925年)に小淵沢に生まれた。初めて会ったとき、着物を端然と着てピンとした姿勢の「気むずかしい人」という印象だった。谷戸さんは62歳のとき、40年の教職生活の区切りとして『歳月人を待たず』と題した自叙伝をまとめている。
「人に誇れるような半生ではないが、教職生活40年をまとめておきたい気持ちと残りの人生をどう過ごすかと思いながら書いた。62年間の大半は戦前、戦中、戦後と激動の時代でした。昭和16年(1941年/太平洋戦争)県立韮崎中学から山梨師範学校に入学、学徒動員から入隊、復員して昭和20年に卒業して教員に。ドタバタという感じだった。戦後の新しい教育環境で教職を40年程務め、そのうちの11年は県の社会教育課にいた」

 隣の長野県は教育県として全国的に知られているが、山梨県はどうも見劣りがするという意見もある。「環境が人にあたえる影響は大きい。家庭や自然環境の影響力はなおさらだと思いますが、山梨県の環境が長野県に比べて劣ることは無いと思います。劣るどころか、ここ大泉は歴史も古く、東は秩父多摩甲斐国立公園、北は八ヶ岳中信高原国定公園、西には南アルプス国立公園、南は甲府盆地のさきに富士山を中心にする富士箱根伊豆国立公園が望まれる。これほどの景観を居ながらにして眺められるところは日本に一つしかない。この景観は今も昔もそれほど変わらない。長野県の教育との比較はよく耳にするが実態や理由はわからない」
 ここ大泉は自慢するものがないのではなく、圧倒的な自然の大きさを誇る言葉が見つけられないのかもしれない。話をうかがった部屋の4枚の襖には、谷戸さんが八ヶ岳南麓の四季を詠(よ)んだ漢詩が書かれている。

人から学ぶ、農業から学ぶ



 小淵沢に生まれた谷戸さんは、母親の在所の跡取りが亡くなられたので跡を継ぐため20歳過ぎに大泉に移り、姓が進藤から谷戸と変わったということだ。40年の教職生活のほとんどは現北杜市内の小中学校で教鞭をとってきた。昭和60年(1985)に泉中学の校長を退職。泉中学には谷戸さんの教育への功績を称えるブロンズ像があり「人は、人と人とのふれあいの中で人となる」と谷戸さんの言葉が書かれている。また吉川英治記念館を訪ねたおりに目にした「我以外皆我師」(自分以外は皆先生)と庶民性を語った言葉が好きだと言う。
 谷戸さんは自伝のなかで「幼いうちから百姓仕事を手伝ってきたことを忘れ得ないものと感じ、素朴な農業の技術であれば人にそれ程ひけもとらないし、苦しさに耐えていく力も父母のおかげで身についたと信じている」と農業から学ぶもの、人から学ぶものの多さを語っている。学校では英語教育に関心が高まっているが、農業を学ぶべきだという声も聞かれる今日この頃である。
「40年程の教職生活のなかで教師を一度退職して11年程県の社会教育にかかわって公民館活動やPTA活動、子どもクラブの結成など地域ぐるみの教育の発展に力をそそいできた。社会教育というのは、人と人との心の結びつき、地域に住む人の連帯感、それを深めたり育てたりするのが社会教育。戦後の混乱した教育環境では、学校教育とこの社会教育が車の両輪のように大切なことだった」
 近年、都会からやってきた家族や老後を、自然環境豊かな大泉でという人たちが目立ってきたが、感想はどうでしょう。

「今から20年程前からですか都会から家族でやってくるようになったのは。その人たちを新住民とすれば、古くからの人たちは原住民ですか。いろんな場面で意見の違いを体験するようになりましたね。学校ではジャージー(学校規定の体育着)を着て登校していたのですが、これに囚人服を着せて登校させるのかとかもっと個性を伸ばすようにすべきではないかと。新住民は考え方も違うところもあるし、積極的に意見を述べる。これに比して原住民は、思いやりを重視するというか控え目ですが、家のまわりのことは誰かに頼むのではなく自分たちでやる。どちらの意見も大切で地域の教育力を高めるためにも、いろんな場面で互いの交流や地域活動が必要ですね。最近では都会から移住される高齢者も増えているが、その人たちの住民活動への不参加が気になりますね」
谷戸さんの社会教育活動は今も続いていて、平成18年には県政の功績者として大臣賞を授与されている。

郷土史への関心


 谷戸さんは郷土への思いを自叙伝に「ふるさとの文化遺産や歴史を学ばずに文化の継承も創造もあり得ないし風土に根ざした教育も望めないと思う」と書いている。「ご当地検定」などと最近は地域の文化、歴史への関心も高い。ここ大泉には国指定の金生遺跡や谷戸城址のほかにも縄文時代や平安、中世の遺跡が分布している。また甲斐源氏発祥の地といわれているが?
「最近まで甲府の舞鶴城や谷戸城が郷土の英雄、武田信玄の居城だと思っていた人も少なくなかった。谷戸城と武田信玄とでは300年ほど時代が違う。郷土にかかわる学習は入学試験にでる訳でもないから、学校教育では置き去りにされてきたようだ」
 地域に根ざした学習は大切なことだという谷戸さんは、郷土を知るための資料が欲しいという声にこたえた『わたしたちのふるさと大泉』の出版や谷戸地区の組の歴史をまとめた『湧水の里』には編集主幹として参加している。谷戸村と西井出村が合併して大泉村ができたのは明治8年。谷戸村の誕生はそのはるか昔。歴史書の編纂には大変な労力や情熱が必要だ。

「金生遺跡が発掘されるまでここには人は住んでいなかったというのが通説だった。ところが縄文時代後期の金生遺跡が発掘され、かなり高度な技術をもった人たちが多く住んでいたことが分かった。その重要性から国指定の遺跡となったのです。谷戸城のほうは中世初期の山城として山頂部の一の郭、中腹の東西に二、三の郭さらに土塁の遺構など、歴史を知るうえで貴重なものとして国指定となっている」 谷戸城址は大泉支所の南に見える小高い丘にある。丘の様子が茶臼に似ていることから茶臼山とか逸見(へみ)山とも言われている。北側、大泉支所から登る道はなだらかだが、峡北の穀倉地帯を見下ろす南側は急峻で容易には登れない。
「この八ヶ岳南麓は放牧などの歴史も古くからあり、豊かな荘園だったのでしょう。このあたりは逸見荘といわれ、ここを掌握する目的で谷戸城が建てられたのでしょう。どんな城だったかは想像するしかないが、今も残る御所、対屋敷や鍛冶田、城の腰などの地名からすると形は整っていたのではないでしょうか」

武田氏の祖はだれだ



 1030年「平忠常の乱」の鎮圧後、東国の指導権は桓武平氏から清和源氏に移っていった。甲斐源氏というのは、清和源氏のうち新羅三郎義光を祖として甲斐国を基盤に発展した武士団である。山梨県の英雄といえば戦国時代の「武田信玄」。その祖である黒源太清光が築いたのが谷戸城で、ここを拠点に勢力を拡大していったようだ。
「武田氏の先祖はだれだということから黒源太清光が注目されたんです。清光の父親は源義清で新羅三郎義光の子です。義清が常陸国(現ひたちなか市)から甲斐国にきたのは平安時代の後期で市河の荘、平塩岡に居館を構え甲斐源氏の勢力を拡大し、清光はこの平塩岡で生まれたと言われている。もう一つの説がある。義清ははじめ武田冠者と言っていた。それは前の任地が常陸国那賀郡武田郷だったからで、その義清が清光とともに常陸国の神領を犯して濫行したので父子とも甲斐の国に流されたというもの。清光は常陸の国で生まれ、常陸の国から追い出されたのは神社の領地を犯し不正に使ったからだというわけ。 後者の説は現ひたちなか市が市史を編纂するために発掘された資料に書かれていたもので、これをもとに「武田氏発祥説」が生まれた」
 諸説あるが、甲斐源氏の実質的な始祖は義清とみるべきというのが通説らしい。その嫡男である逸見冠者黒源太と称する清光のことをもう少し聞きたい。

「清光とゆかりの深い逸見神社も長い歴史のなかで災害に流されたり、その際に資料が散逸したり地元の資料は乏しい。古いことがらは『甲斐国志』の記述によるところが多い。そこでは甲斐の国の始祖が追放者だとか流罪で入国と書くわけにもいかなかったのでしょう。それで平塩岡の誕生説が生まれたと思います。清光が自ら逸見冠者黒源太と名乗ったのは、逸見荘を統一支配する者で黒源太は源氏の直系で使われた嫡男の通称です」
 清光は子宝にめぐまれ、彼らが甲斐国内に勢力を伸ばしていったようですが。「たくさんの子供のなかでも光長と信義は、ともに源氏の嫡男である太郎を名乗り、二人太郎の双子と言われているが、実は光長は正室の子で信義は側室の子だと思うのです。光長の母の記述はないが、信義の母は“母手輿遊女”とあって、手輿は静岡市手越だろうというわけです。清光が京都に向かう途中に手輿の宿に立ち寄っても不思議ではない。そこでもてなしをする女性を遊女といったようで、気に入った遊女を側室として対屋敷に住まわせたようです。対屋敷には多数の女性がいたようですよ。信義は武田荘(現韮崎市)を与えられて勢力を拡大し、いつか本家は逸見氏からこの武田氏移っていった。その後、同族の抗争が何代か続いたあと武田三代(信虎、信玄、勝頼)の時代へとつながっていく」

 谷戸武雄さんは学校教育と社会教育は車の両輪のごとく、どちらも欠くことのできないことと40年にわたり続けてこられた。社会教育は84歳になられる今日も続けられている。ぶれのない心の持ちかたが体や姿勢にもあらわれるのであろう。端然とした姿勢、凛とした態度は時として「気むずかしい人」と印象づけるかもしれないが、生き方の勇気にふれた気もする。
ここ大泉は郷土史ばかりでなく、八ヶ岳南麓の自然から学ぶこと、そこに働く人たちから学ぶことなど地域の教育力は幅広く高い。生活はいきいきとしたものでありたい。「静かな暮らしを求めてきた新住民の人たちももっと地域の人々といきいきとした交流をして欲しい。人生は休まず学ぶことで豊かになる」という谷戸さんの言葉は、これからの大泉のために大切なことだ。
 参考文献:大泉村誌上・下巻

谷戸武雄(やと たけお)さん


 昭和20年山梨師範学校本科卒業、同年9月から篠尾国民学校に教諭として赴任。昭和38年に泉中学を退職して事務局事務職主事として社会教育課に務め、48年に退職。その年再び教員として小淵沢西小学校に赴任、56年に泉中学を退職。再度、主幹社教主事として事務職につく。57年に長坂小学校に校長として赴任、60年に泉中学の校長を退職。
2013/03/24(Sun) 02:23


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